失敗しない建物賃貸借契約のポイント
建物賃貸借契約を結ぶとき当事者間で紛争となりがちな約定は慎重に検討されなければならない。近年における当該契約で特に争いやトラブルになりやすい事項は、
- 原状回復と敷金返還
- 借家人の負担とする修繕義務は有効か
である。本コラムでは、平成5年1月に建設省(現国土交通省)の諮問機関である住宅宅地審議会の答申により、住宅賃貸借の契約書の雛形とされた「賃貸住宅標準契約書」の具体的な約定を引用しながら、問題点や法律的有効性について言及する。
1、原状回復と敷金返還
賃貸借契約終了後、借主は建物を明け渡し、原状回復する義務がある。民間賃貸住宅における賃貸借契約は、契約自由の原則により、貸す側と借りる側の双方の合意に基づいて行われるが、退去時において、貸した側と借りた側のどちらの負担で原状回復を行うことが妥当なのかを巡るトラブルが多発している。
平成13年4月、消費者契約法が施行され、消費者の利益を一方的に害する賃貸借契約書は、無効になるなど消費者保護の考え方が浸透してきているが、国民生活センターにおける苦情、相談の分析によれば平成10~14年度でこの問題の相談件数は年々上昇し、平成14年度で前年比34.2%アップの5,249件にもなっているという。原状回復に要した借主負担部分の費用は敷金から控除され、清算されるため原状回復と敷金は密接に連動している。まず敷金の法的性質からみてみよう。
■敷金の法的性質
敷金の法律上の性質は、賃貸借終了の際、賃借人に債務不履行あるときは当然にその弁済に充当されて残額を、債務不履行がなければ全額を返還するという停止条件付返還債務を伴う金銭所有権の移転であると解するのが判例通説である(出典:「賃貸住宅標準契約書の解説」、「新法律学辞典 新版」)。
借主の賃貸借契約上の義務として、
- 賃料を支払う義務
- 賃借物の保管義務
- 賃借物の用法遵守義務
- 賃借物返還義務
- 原状回復義務
があり、敷金は、賃借人によるこれらの義務違反があったときに、損害賠償の担保として、家主に預けられているが、金銭所有権は契約期間中は貸主にある。また敷金は、借主の賃貸借契約中の義務違反による一切の債務を担保し、賃貸借契約終了・明け渡し後に債務不履行分が充当清算され残額があれば返還される。このため当該建物を契約により使用中は、条件成就前であるので返還請求権は確定せず相殺敵状にないため借主は、敷金を自動債権として賃料、共益費その他の債務と相殺できない(下記の標準契約書6条2項、3項が該当する)。
(敷金)
第6条 乙は、本契約から生じる債務の担保として、頭書(3)に記載する敷金を甲に預け入れるものとする。
2 乙は、本物件を明け渡すまでの間、敷金をもって賃料、共益費その他の債務と相殺をすることができない。
3 甲は、本物件の明渡しがあったときは、遅滞なく、敷金の全額を無利息で乙に返還しなければならない。ただし、甲は、本物件の明渡し時に、賃料の滞納、原状回復に要する費用の未払いその他の本契約から生じる乙の債務の不履行が存在する場合には、当該債務の額を敷金から差し引くことができる。
4 前項ただし書の場合には、甲は、敷金から差し引く債務の額の内訳を乙に明示しなければならない。
原状回復について契約の約定を検討するには、関連する裁判例を参考にするとともに、これらの判例の傾向等を反映して作成、制定された一般的基準というべき国土交通省住宅局の賃貸住宅のガイドラインやそれを踏まえた東京ルールを参考とすることが有益である。
■国土交通省住宅局の賃貸住宅の原状回復ガイドライン
当該ガイドラインは、退去時における原状回復をめぐるトラブルの未然防止のため、国土交通省住宅局が、先に建設省において住宅宅地審議会から答申された賃貸住宅標準契約書の考え方、裁判例及び取引の実務等を考慮のうえ、原状回復の費用負担のあり方について、妥当と考えられる一般的な基準として平成10年3月に取りまとめたものであり、平成16年2月には、裁判事例の追加などの改訂が行われている。
本ガイドラインでは、原状回復を「賃借人の居住、使用により発生した建物価値の減少のうち、賃借人の故意・過失、善管注意義務違反、その他通常の使用を超えるような使用による損耗・毀損を復旧すること」と定義し、その費用は賃借人負担とした。そして、いわゆる経年変化、通常の使用による損耗等の修繕費用は、賃料に含まれるものとし、原状回復は、賃借人が借りた当時の状態に戻すことでないことを明確化した。
具体的には、賃借人が原状回復義務として負担しなければならないケースとして、
- 賃借人の住まい方、使い方次第で発生したり、しなかったりすると考えられるもの(明らかに通常の使用等による結果とは言えないもの)
- 基本的には賃借人が通常の住まい方、使い方をしていても発生する損耗であるが、その後の手入れ等賃借人の管理が悪く、損耗等が発生または拡大したと考えられるもの
としている。
1については賃借人に故意・過失、善管注意義務違反が認められるケースで、物を運んだときに柱や壁につけた傷などが該当し、2は賃借人に非があって生じた建物価値の減少ではないが、その後の賃借人の管理が悪かったため損耗が拡大したケースで、クーラーからの水漏れを放置し壁が腐食したなどが考えられる。
この場合、修繕費用を賃貸人と賃借人でどのような割合で負担するか、その基準となるべき考え方をガイドラインは示している。つまり1、2のケースには経年変化や通常損耗が含まれており、賃借人はその分を賃料として支払っているので賃借人が修繕費用の全てを負担することとなると、契約当事者間の費用配分の合理性を欠くなどの問題があるため、賃借人の負担については、建物や設備の経過年数を考慮し、年数が多いほど負担割合を減少させるのが適当としている。
例えば、賃借人の過失・善管注意義務違反でカーペットにキズをつけた場合、カーペットの同等品の新品価格を基準に修復費用を計算するのでなく、カーペットの耐用年数を6年で残存価値を10%とすると2年経過していれば新品価格を100%とすると新品当時に比べ70%の価値になるという経年変化を前提に修復費用負担を相互調整する。
また原状回復は毀損部分の復旧なので可能な限り当該毀損部分に限定し、その補修工事は出来るだけ最低限度の施工単位を基本としている。ただし毀損部分と補修を要する部分とにギャップ(色あわせ、模様あわせなどが必要なとき)がある場合の取扱いについて、一定の判断を示している。例えばクロスの施工単位は1平方米単位であるため、損耗部分がその範囲内に収まるなら1㎡が修復費用の基準となるが色や模様あわせで壁1面を張替えする必要があれば基準を超える賃借人の負担も発生することになる。
■東京ルール
国土交通省住宅局の賃貸住宅の原状回復ガイドラインを踏まえ東京都は、原状回復トラブルを抜本的に防止することを目的として「賃貸住宅トラブル防止ガイドライン」と「東京都における住宅の賃貸借に係る紛争の防止に関する条例」を制定しており、主にこの2つを「東京ルール」と呼んでいる。
賃貸住宅紛争防止条例では宅建業者に以下の点について借主に書面を交付し、契約前の説明を義務付けている。
- 退去時の原状回復・入居中の修繕費用負担の原則
- 実際の契約のなかで借主の負担としている具体的内容
- 修繕及び維持管理等に関する連絡先
賃貸住宅トラブル防止ガイドラインでは原状回復の貸主、借主の費用負担について下表のように定義している。
■通常使用損耗を借主負担とする特約とその効力
標準契約書による明け渡し、賃借人の原状回復の下記約定は、通常使用による損耗は賃貸人負担としており、これまで書いてきた判例の傾向やガイドライン等と合致している。
(明け渡し)
第11条 乙は、本契約が終了する日までに(第9条の規定に基づき本契約が解除された場合にあっては、直ちに)、本物件を明け渡さなければならない。この場合において、乙は、通常の使用に伴い生じた本物件の損耗を除き、本物件を原状回復しなければならない。
2 乙は、前項前段の明渡しをするときには、明渡し日を事前に甲に通知しなければならない。
3 甲及び乙は、第1項後段の規定に基づき乙が行う原状回復の内容及び方法について協議するものとする。
このような通常の負担割合と異なる特約、例えば通常使用損耗も賃借人の負担とする特約がなされた場合は、民法の契約自由の原則により当事者の合意が重視されることになる。しかし特約の内容によっては無効となる。近年の判例の傾向から特約が有効とされるには下表のような要件が必要となる。
- 特約の必要性があり、かつ、暴利的でないなどの客観的、合理的理由が存在すること
- 賃借人が特約によって通常の原状回復義務を超えた修繕等の義務を負うことについて認識していること
- 賃借人が特約による義務負担の意思表示をしていること
■入退去時の現状確認
原状回復をスムースに遂行するには入退去時に双方が立会して日付入りの写真やビデオ撮影をしておくことが重要で、特にキズや汚れ、凹みなどのある箇所はミクロモード撮影などしておくと良い。契約締結時において、原状回復などの契約約定を範囲を明確にして具体的に記載し、当事者双方がよく確認し、納得したうえで契約をすると未然にトラブルを防ぐことになる。
全国賃貸住宅新聞記事によると退去後日が経ってから「原状回復費用はこれぐらいになります」と請求するとクレームが出やすいらしい。ガイドラインに基づいて部位、耐用年数ごとにマニュアル化された費用算出シートを作成しておき、退去時に入居者、オーナー、管理会社、建設会社の4者が立ち会って、PC上で費用と負担割合を即座に計算してお互いに確認できるような仕組みがあるとトラブルになるケースが少なくなる。
2、建物使用中の修繕を借主負担とする特約とその有効性
家主には、賃貸中の物件について、それを使用するのに適するようにしておく義務がある(民法606条)。つまり修繕は原則として家主の義務であるが、民法606条は任意規定であるため、特約で賃借人に修繕義務を負担させるのは可能である。
たとえば、畳表の取替え・裏返し、ガラス・障子・襖の張替え、蛍光灯・電球の取替えなどの小修繕をいちいち家主に請求してやらせるのは借主に取っても煩雑だったり、その間を待っているのが不都合だったりすることがあるので小修繕は賃借人が負担するという特約が結ばれることが多い。
なかには借家人にかなりの規模の修繕義務を負わせる特約も存在し、このような場合、借家人にとって著しく不利益な修繕特約は、特約の内容や範囲によっては信義則や公序良俗等の適用を受け無効となるケースもでてくる。
小修繕を賃借人に行わせる特約であるが、判例は、「極端に家賃が安いなど特段の事情がない限りは、単に賃貸人の修繕義務を免除する意味しかなく、賃貸人から賃借人に対して修繕を請求したり、修繕費用を退去時に敷金から差し引くことはできない」とされている(大塚浩著 Q&Aわかりやすい“賃貸住宅の原状回復ガイドライン”の解説と判断例)。
つまり小修繕特約は、家主の修繕義務を免除したにとどまり、借家人は自ら修繕を行うか、修繕を行わず我慢するかの選択となり、借家人が修繕を行わない場合も家主は、借家人に修繕するよう請求することはできない。また明け渡し後に家主が修繕を行ってもその費用を借家人に請求することもできない。
標準契約書では、修繕の原因が借主の故意または過失である場合は賃借人の負担とし、それ以外は賃貸人が負担し修繕を行うことを原則としている。ただ別表4のような費用が軽微な修繕については借主が賃貸人の承諾不要で行うことができる借主の権利としており、借主の義務としていないことは判例などの傾向を斟酌したものと思われる。
(修繕)
第8条 甲は、別表4に掲げる修繕を除き、乙が本物件を使用するために必要な修繕を行わなければならない。この場合において、乙の故意又は過失により必要となった修繕に要する費用は、乙が負担しなければならない。
2 前項の規定に基づき甲が修繕を行う場合は、甲は、あらかじめ、その旨を乙に通知しなければならない。この場合において、乙は、正当な理由がある場合を除き、当該修繕の実施を拒否することができない。
3 乙は、甲の承諾を得ることなく、別表4に掲げる修繕を自らの負担において行うことができる。
別表第4(第8条関係)
- 畳表の取替え、裏返し
- 障子紙の張替え
- ふすま紙の張替え
- 電球、蛍光灯の取替え
- ヒューズの取替え
- 給水栓の取替え
- 排水栓の取替え
- その他費用が軽微な修繕
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