地価下落・不良債権・デフレ負の連鎖 その2 / 真説・土地バブル

1、バブルの発生の原因

バブルについて多くの検証がなされている。そのほとんどはバブル崩壊後になされた。なぜなら現実に起こった価格変動が合理的バブルなのかファンダメンタルズの変化によるものか、あるいは非合理的期待によるものかの識別はかなり難しく、政策当局もそのような分析、判断を短時間ですることは困難と言えるかもしれないからだ。

バブルを識別するには「バブル」の定義をしなければならない。経済学では「資産価格がファンダメンタルズ(経済の基本的要因)から大幅に乖離して上昇すること、あるいは経済合理性に基づく経済理論で説明できない資産価格の変動をバブルと定義する」(総合研究開発機構 平成バブルの研究)。

土地価格であれば収益価格が理論価格(ファンダメンタルズの価格)の機軸になると思われるが、理論価格の構成要素や大幅に乖離してない水準を検証することはフローの経済指標を分析するより困難性が強い。

しかし、1980年代日本を襲ったバブルの発生と崩壊、それからはじまった数多くの失われた歳月、これらは日銀、大蔵省の整合性に欠ける認識、対応の信じられないほどの遅れとミスリードによる。政策当局は厳しく批判されてしかるべきであろう。

振返ってみればバブル当時、「投機の時代」を書いた長谷川慶太郎をはじめバブルに肯定的な論調が多く、いまはバブルだという認識を持っていた経済学者は少なかった。東京大学教授野口悠紀雄は、当時から土地価格の高騰は不動産のファンダメンタルズから離れており、これはバブルだと批判していたが…。「バブルは崩壊して初めてバブルだと解る」というのはグリーンスパンFRB議長の有名な言葉である。

バブルについて様々な研究資料、書籍があるが、そのいずれも多角的視点に欠け、不動産価格に対する実務的視点も希薄なように思える。本稿ではバブルに関するさまざまな見解を紹介し、土地バブル論を展開してみよう。

A、国際協調の呪縛

バブルと失われた10年を検証するとき、後述するが日銀、大蔵省の失政は断罪されるべきである。しかし東西冷戦下、アメリカにつぐ世界第2位のGDP、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」といわれた日本独自の成長システム、輸出指向の高さに対する米国の対日要請と日本政府の対米政策がバブル発生の背景にあり、さらにバブル崩壊後の日本の枠組みに影響を与えたとする見解がある。

バブルの発生・崩壊の犯人探しが盛んだが「誤解を恐れずに言えば、バブルの発生と崩壊の責任を国内の経済主体と経済政策だけに求めるのは視野が狭すぎる」(滝田洋一著 日本経済不作為の罪)。その象徴的なものとして取り上げられるのが、米国の要請で行われた「プラザ合意」、「日米構造問題協議」である。

プラザ合意は日本のバブル発生の契機となり、日米構造問題協議は、「構造協議で示された枠組みが、バブル崩壊後の90年代の日本経済の方向を規定した、と言っても過言ではない。(中略) 系列や株式持合いに基礎を置く日本経済は、株価と不動産価格の下落に伴って、組織の自己破壊(ディスオーガニゼーション)を起こしていった」(滝田洋一著 日本経済不作為の罪)。

■プラザ合意、為替アンカー論

バブルは、1985年9月のプラザ合意から始まったと言われている。1980年代前半の米レーガン政権は、異常なドル高に悩まされていた。ドルに換算した輸入品の価格が安くなり、輸出品の価格は相手国通貨べースで高くなるため輸入は増えて輸出が減少し、アメリカの貿易赤字が急速に増えた。80年代半ば、日本は、世界最大の債権国、アメリカが世界最大の債務国になり、米国内は、ドル高のために農業や製造業が疲弊し、空洞化の懸念が出てきた。いわゆる貿易摩擦である。そこでそれまでの行き過ぎたドル高を是正するためニューヨークのプラザホテルに先進5ヶ国蔵相を集め、是正を確認させた。

国内はプラザ合意をきっかけに急速に円高に向かう。合意前の1ドル240円が翌年7月頃には150円位になり、さらに88年の半ばまで円高が続く。輸出企業は大打撃を受け、円高不況が進むため、日銀は86年の3月頃から円高抑制へと政策を転換し、ドル買い介入を始めた。87年2月ドル暴落を懸念した先進7カ国の通貨当局者会議で為替相場の安定に向けたルーブル合意が成立した。しかし円高はその後も進んだ。

不況の到来を懸念した大蔵省、日本銀行は、大幅な金融緩和策をとった。1986年1月30日に公定歩合を5%から4.5%に引き下げた。以来、87年2月に2.5%に引き下げるまで、計7回の引き下げを行った。地価高騰時の1987年、米国の株価暴落いわゆるブラック・マンデーは、日本の政策当局の金融引き締めを困難にした。

ブラック・マンデー後の景気回復を受けて米独が公定歩合を引き上げたにも関わらず、日本だけが、世界の超大国は金融緩和によって世界の為替レートを低位安定しなければならないという「為替アンカー論」を理由として金融緩和を持続した。このような円高の急速な進行や国際的背景が超金融緩和政策を持続させバブルを引き起こす原因になった。

さらに米国は、日本の経常黒字の背後にある高貯蓄体質の是正を迫った「日米構造問題協議」を提案してきた。「日米構造問題協議」では日本の高地価も取り上げられその是正が要請された。

■日米構造協議

構造協議が持たれた米国の背景として米国社会に急速に浸透してきた日本脅威論、日本異質論がある。セオドア・ホワイト著「日本からの危険」、プレストウイッツ著「日米逆転」など日本の異質性を強調し、日米関係の見直しをテーマにした著作が相次ぎ出てきた。軍事力でなく資本力と日本独自の成長エンジン(終身雇用、土地本位制、銀行の株式持合い、メインバンク制など)で奇跡の回復と強力な輸出力で繁栄している日本が、それらにより何を目指しているのか解らないという疑念が米国内に膨らんでいた。

総合研究開発機構(NIRA)による「平成バブルの研究」から引用すると「レーガン政権のシュルツ国務長官が回想しているように日本は巨大な外貨余剰を蓄積し、それは世界中で使える資源と権力を意味していた。日本はその経済力で、軍事力で達成できできなかったものを達成しようとしているのだろうか。そうだとしてその力を用いるときは、その軍事占領と戦術を特徴づけた無神経さ、時には残虐性をもって行うのだろうか」という疑念が広まりつつあったのである。

「構造協議の米国側の問題意識はハッキリしていた。一国の経常収支の黒字は、経済学の恒等式で示されるとおり、貯蓄と投資の差額に等しい。日本における巨額の経常黒字を是正するには貯蓄と投資の差額(貯蓄超過額)の縮小を図るべきである。そのためには長期に亘る公共投資の拡大と民間消費の増加を通じて貯蓄を使う必要があると言うものだ。」(滝田洋一著 日本経済不作為の罪)。

90年6月の構造協議の最終報告に合わせ海部内閣は、公共投資を91年度から2000年度までの10年間で総額430兆円実施する「公共投資基本計画」を閣議決定した。

構造協議は貯蓄と投資の差額の縮小を求める公共投資要求と「消費者利益」を示したが、当時のマスコミは生産者重視の日本経済を消費者本位に転換するものだ、まるで野党の要求のようだと好意的に報道したし、国民の受けも良かった。

さらに、米国側は構造協議に米側の「土地戦略ノート」で臨んでいた。「構造協議への期待」を書いた野口悠紀雄教授や長谷川徳之輔建設経済研究所常務理事にはアメリカ側から接触があり、その見解は米側の「土地戦略ノート」に影響を与えたと言われている。アメリカの「土地戦略ノート」としてまとめられたものは、土地取引の規制緩和と高度利用化を促進することで地価を下げることを目指したものであった。米国側としては高地価が日本市場への参入の障害になっており、日本の高貯蓄率の原因であり、地価高騰の含み益が原資となって米国などへの巨額の投資となっているということの是正を図ったといわれている。

B、円の支配者による壮大な陰謀説

本稿のテーマが「バブルの発生と崩壊」とくれば01年のベストセラー「円の支配者」に書かれた日銀のプリンス達(日銀生え抜きの総裁)による壮大な日本改造計画と称するバブル陰謀説に触れないわけにはいかないだろう。

01年、ドイツ人経済学者リチャード・A・ベルナー氏の著書「円の支配者」は日本のバブルの発生と崩壊を日銀が失政でなく故意に確信犯で起こしたという衝撃的な内容を豊富な取材で詳細に書いている。本書の内容を簡単に紹介すると、「バブルの創出も崩壊も日銀の経済危機を演出するシナリオであり、日銀の構造改革の触書「前川レポート」にはじまる「日本改造10年計画」の中に組み込まれていた。」というのが本書の主題である。

「窓口指導」という信用統制の手段でバブル発生のときは市中銀行の貸し出し枠を故意に増加させてバブルを膨張させ、土地価格急落から資産デフレの時代にかけては、政府が景気回復を目指して必死の努力を続けているとき、むしろ日銀は信用創造を収縮させて故意に回復を遅らせた。バブルの創生と崩壊というショックを与えることで、大蔵省の権威を失墜させ、危機の発生と問題解決の処理不全が従来の日本的構造によるものだという認識を浸透させることで日本の体制を構造改革に転換させようという狙いがあった。1998年大蔵省は解体され力を失った。日銀は独立を果たし、その秘密権力が合法的になったというのである。

内容が衝撃的なだけに反論も当然にある。立教大教授山口義行氏とエコノミスト東谷暁氏の反論を紹介する。

山口義行氏は著書「誰のための金融再生か」でバブル当時の銀行にとって日銀の「窓口指導」によって割り当てられた「貸し出し増加目標」はむしろ低すぎた。それだけではとても足らず、その上限枠を超えて、いかに少しでも多くの資金を供給するかが、銀行の最大の関心事であった。窓口指導を逃れ貸し出しを増やす手法として直接企業に貸す代わりに、一旦海外支店に資金を送って、その海外支店から国内企業に貸し出させる「ユーロ円インパクト・ローン」と呼ばれる面倒な「迂回融資」をやったり、銀行が貸し出したという形態だけでなく、社債や株式を買い取る形で企業に資金供給も行った。「窓口指導」はあくまでも貸し出し増加額に関する指導であるから、社債や株式の買い取り額はそこに含まれない。このような当時の状況から見ても、日銀が無理な貸し出し増加目標を設定し、銀行に貸し出しの増加を求め、バブルを引き起こしたと言うベルナー氏の主張は現実離れしていると反論する。

次に東谷暁氏だが著書「誰が日本経済を救えるのか」で日銀は01年3月に再び0%に引き下げる政策を採用した。このときは金融ターゲットをそれまでの翌日物金利から日銀当座預金に移し、金融政策での大転換を行い、日銀は量的緩和に踏み切った。必要と判断されれば長期国債の買い入れも増額すると言っている。しかし日本経済はその後回復するどころかますます悪化している。ベルナー氏の議論は金融におけるセイの法則と同じで、通貨供給が通貨需要を創り出すという前提に立つが、いまの日本では金融市場の需要と供給が出会わない状態になっている。中小企業はお金が欲しいが借りても返せる当てがない。銀行にしてもとても貸せる相手でないし、それどころか自分達が貸せるような状況にない。そもそもアメリカの金融界の支配力が世界を覆うような状態にある現在、どうすれば日銀総裁がたった一人で神のごとき力をふるい、この混乱状態から抜け出せると言うのかと批判する。

日銀がバブル時に引き締めが遅れ、バブル崩壊後しばらくの間、景気回復に非協力的だという見方は、外国人機関投資家間で多い。重要な経済の転換期に必ず政策をドジるため日銀無能説もある。無能なのか確信犯なのか判別は難しいが、バブル時の引締めが遅れたのは日銀の陰謀と言うより、国際協調の呪縛と対米政策があったという当時の状況に起因すると考えるのが自然だと言う反論が多いが、私見としては、ベルナー氏の説ではバブルという危機の演出により、大蔵省は解体、日銀の独立性が果たされ、日本改造計画の眼目であった「構造改革」を標榜する小泉内閣が高支持率を維持しているいま、経済を意のままに制御できる日銀のプリンスがいまの日本の不況をなぜ脱却できないのかという疑問を払拭できないし、その1で書いたとおり、金融の量的緩和だけではデフレ脱出の決め手とはならない。

C、国内のバブル環境の醸成

バブル発生の元凶は、前述の通りプラザ合意に基づく急激な円高にともなう「円高不況」を回避するため公定歩合を5回にわたって引き下げ、当時の史上最低水準をさらに下回る2.5%まで引き下げ、この史上最低水準を2年3ヶ月続けたことがまず指摘される。加えて1986年9月の「総合経済対策・総事業規模約3兆6千億円」と87年5月の「緊急経済対策・同約6兆円」の2度にわたる大型経済対策を行ったこともカネ余り現象を作り出した。

また大企業が1980年代から資金調達をエクイティ・ファイナンスなどを活用し、直接内外資本市場から調達しはじめたため大手金融機関は大口融資先を相次ぎ失い、これに金融の自由化が拍車をかけ融資のハイリスク・ハイリターン化が進んだ。融資先が、それまでの優良な部分から、リスクの高い部分にシフトしていった。

また預貸金利ザヤの縮小により優良貸出先を維持するため、金融機関はますます高金利の預金獲得競争へ傾注し、預貸金利ザヤの縮小に拍車をかけ、それによる収益力の圧迫が、またハイリスク・ハイリターンの融資を促進した。86年住友銀行が首都圏を主要地盤とする平和相互銀行を吸収合併し勢力拡大したことに端を発するF/S戦争(富士・住友間の業容拡大競争)などに象徴される銀行間の熾烈を極めた貸出競争が金融の超緩和と相俟って土地バブルを促進した。

金融機関が新規に開拓していった融資先は、非製造業、中小企業であった。非製造業は建設・不動産・ノンバンクに集中し、いわゆる土地がらみの融資が増加した。金融機関によるノンバンクを通じた迂回融資は、後の住専問題を引き起こすが、審査やリスク管理が甘く、不動産業者の提携ローンなどを通じ資金が流れ込んだ。

「信用秩序維持政策における「規律付け機能」の緩みが発生した。預金金利の自由化が進められて、競争制限的規制が後退するなか、健全経営規制の拡充と破綻処理型のセーフティ・ネットへの転換が遅れたために、金融機関においてモラル・ハザードが壮大な規模で引き起こされた」(総合研究開発機構 平成バブルの研究)。

当時の税制もバブルを引き起こす要因となった。相続税路線価は実勢価格のほぼ半値で相続税対策として銀行借入の債務と土地購入の有利性があったし、富裕層などはマンション投資をすると不動産の含み益には課税されない反面、金利相当分やマンションの減価償却費は給与所得と損益通算が可能で節税目的での需要を生んだ。

さらに国内的風潮として86年11月NTT株式の売り出しを通じて財テクは個人層にも浸透し、国全体に強気が蔓延し、マスコミもバブルを生む浮かれた報道が目立つようになってきた。日本をバブルへ掻きたてたのは日本人のDNAに擦り込まれた「土地神話」であり、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と賞賛された自国経済の強さへの過信があったことは言うまでもない。

2、地価の高騰

■はじまりは「都心にオフィスが足りない」

85年5月国土庁が発表した「首都改造計画」で2000年における東京のオフィス需要を8,000ヘクタールと推計した。87年第4次全国総合計画(4全総)ではトーンダウンしたが4,000ヘクタールという需要予測が行われた。この国土庁の推計がオフィス需要の裏づけデータとして取られ東京の商業地の地価が上昇し始めた。

昭和57~58年頃から、都心商業地域で地価が上昇を始め、これが順次、南西区部へ拡がり、さらに北西区部および北多摩地区から南多摩、西多摩地区へと進み、東京都全域に波及した。都心商業地域から始まったのがこの土地バブルの特徴で、社会経済構造変化が情報化・国際化・サービス化を促し、業務機能や中枢管理機能の東京都心部への集積が進行し、オフィス需要が急増したためまず都心商業地から地価高騰が起こった。

「関西系大手企業を中心とした地方企業の、東京本社機能の相次ぐ拡充や東京への本社移転、金融・証券を中心とする外資系企業の急激な東京進出、情報サービス産業の急増などによりオフィス需要が一挙に膨らんだのである。東京・赤坂のアークヒルズでは、外国系金融機関が大挙して入居した。(中略) 他の都市に比べ、もともと東京のオフィスの空室率は低く、オフィスの需要は高い水準にあったが、昭和59年頃からますます空室率は低下し、オフィス需要が急増したことを示している。それに呼応するように、東京都心部の地価は、昭和59年から上昇し始めた。オフィス需要の急増により需給のバランスが崩れ始めたためである」(鎌形太郎 地価高騰で変貌する土地)。

■バブル時、地価はこう動いた

86年の国土庁地価公示価格(86年1月1日価格時点)を見ると、まず東京都心3区から始まった地価高騰は、周辺部、あるいは主要ターミナル地区、区部の南西部で年間上昇率は20%から30%を示した。しかし当時は東京圏の商業地でも、北部とか、東部、あるいは隣接県はまだ5%から10%といった上昇率に留まっていた。

東京圏の住宅地は東京駅からの距離で遠心状にみて5キロまでのところは22.7%のアップ。それから10キロが12.3%、それから15キロまでが7.7%。これはいずれも前回の12.6%とか、5.3%、2.5%のアップに比べると、大体2倍とか、3倍とかになっている。都心部の住宅地、あるいは都心周辺部の住宅地が上がってきているということである。住宅地は、しかし、20キロを超えるとほとんど全国平均並みの上がり方しかしていなかった。

87年になると地価上昇率は、右肩上がりの陶酔的群集心理が引き起こした狂気の暴騰を示した。それが翌年の「88年地価調査」(88年7月1日価格時点)になると東京都の地価上昇は著しく鈍化し、沈静化に向かつていることが明らかになってきた。住宅地の変動率は、地区別にみると中心区がマイナス3.9%、内周区マイナス2.3%、外周区8.0%、北多摩地区25.2%、西多摩地区47.6%を示し、住宅地の価格は、これまでの上昇傾向に歯止めがかかり、前回の変動率を大幅に下回った。特に中心区、内周区および北多摩地区で反転してマイナス変動率を示したのが目立った。

商業地の変動率を地区別に見ると、中心区がマイナス0.1%、内周区1.4%、外周区10.4%、北多摩地区0.8%、南多摩地区18.9%、西多摩地区42.1%となっており、本年の商業地では、ほとんどの地区で住宅地に比べ著しく鈍化傾向をみせ、昨年の変動率を大幅に下回った。

東京都においては、土地取引適正化条例の施行による土地取引規制、国土法の改正による監視区域の指定、さらには100平方メートルの網をかけたことから地価は都心部から沈静化に向かいだしたことが見て取れる。

住宅地価を主要な地域別にみると、東京都や神奈川県など首都圏中心部は88年中に下落が始まったが、首都圏のそれ以外の地域や、近畿、中京などの都市圏では、下落が始まった時期が91年中であり、地方圏ではさらにもう一年遅れた92年中頃であった。東京地区の地価下落が先行したのは、地価の監視による直接的取引規制がある程度機能した可能性を示しているが、政府による総量規制が地価の鎮静化を決定的なものにしたと言っても過言ではない。

「地価下落に直接的かつ、もっとも強力に作用したのは、総量規制であろう。90年1~3月期までは全産業向け貸出しの伸びを上回っていた不動産向け貸出しの伸びが、次の四半期以降下回りはじめている。土地の取引金額を調べてみると、国土庁の推計で、92年のそれは90年に対して28%減だが、そのうち法人による取引金額は44%減となっており、資金源を絞られた法人を中心に土地取引が沈静化した様子がうかがえる。なかでも東京圏に所在する法人では、55%減とその姿が顕著に現れている」(田中隆之著 現代日本経済バブルとポスト・バブルの軌跡)。

■海外不動産投資

国内の超金融緩和による余剰資金は海外の不動産投資にも向かった。円高であるためいままでより不動産が安く買える、日本での不動産投資は土地が高騰しすぎたため、新規に土地を買って、ビルを建てて投資採算に殆どのらないため利益を上げるのが極めて難しく、比較的利回りのよい米国の不動産をというふうに、割合、抵抗感のない形で、米国への投資が増えていった。生命保険会社や大手不動産会社、ゼネコンのほかに、一部、ニ部にも上場してないような会社の投資もかなり増えていた。

1988年、日本の対外資産は急増し、ソニーがCBSのレコード部門、さらに映画会社のコロンビアを買い、三菱地所がニューヨークのロックフェラーセンタービルを買った。ティファニー、エクソン、ABCなど、ニューヨーク、マンハッタンの有名ビルを日本企業は買収した。1988年末には日本企業がロサンゼルスのオフィス用ビルの3分の1、ワイキキの有名ホテルの4分の3を買い占めたと言われている。後にこれらの海外不動産投資は殆ど失敗に終わり、ゼネコンをはじめ買収企業の経営を圧迫することになる。

■リゾート開発

バブルの真っ只中1986年から1990年までの5年間、日本列島をリゾート開発ブームが覆った。その背景としては金余り現象(株売却益、マル優廃止、節税策など)、金利の低下、週休2日制の普及などによる余暇の増大、時間や精神的ゆとりを勧める「レジャー・余暇生活」重視型への国民の意識転換があげられる。

このブームに大きく弾みをつけたのが62年に施行されたリゾート法(総合保養地域整備法)である。中曽根内閣時代に制定された民活法が都市部を主対象としているのに対して、リゾート法は地方が主体である。誤った期待予測と甘い実需の読み(85年から88年までに円高が進み、海外旅行が割安となり、国内リゾートは衰退していった)で日本列島を広範に地価を暴騰させ下落させた。まさに蜃気楼のように実需と乖離した構想が打ち出され、バブル崩壊後、相次ぎ挫折した。大規模リゾートを開発した第三セクターを含む企業の経営破綻が急増し、全国各地で多くのリゾート物件が不良債権となった。計画から逃げ出す民間企業も続出し、リゾート開発ブームは一気に冷え込んだ。

リゾート法はまだ存続しているが、地方分権改革推進会議は先頃、社会保障、教育・文化、産業振興、公共事業といった各分野における地方分権改革の進め方について中間報告をまとめた。その中で、総合保養地域整備法(リゾート法)の在り方に関して言及している。「リゾート法で承認された基本構想のうち、今後進捗の見込みがない構想は廃止を検討する」というのがその骨子だ。リゾート法そのものの廃止も検討すべき時期がきている。

3、バブルの崩壊

■バブルのもたらす歪み

過剰流動性がフロー・モノでなくストック・資産に集中的に向かった。フローの物価が比較的に鎮静していたため日銀は引き締めの判断を誤った。このバブルの特徴と言える。

株が上がっても誰もブーイングしないが、地価が上がると誰でもハッピーというわけにはいかない。地価高騰でマイホームを退職金で買えなくなったサラーリーマンの不満は、地価が上がり、マイホームの夢が遠のくのに比例して増幅されていく。こうしたサラリーマンの不満だけでなく、バブルが実体経済や社会に歪みを作りつつあった。

「商工会議所が地価高騰の真っ只中の昭和62年に実施したアンケ-トによると、千代田区、中央区、港区、新宿区、渋谷区の都心5区の4割以上の中小企業が「移転せざる得ない不安を感じる」と訴えた。次々と都心で商売をしていた中小・零細企業が、都心の土地を売った売却益で、世田谷などの山の手に移っていったのである。特に昔ながらの、生活に密着した商店は急激に減ってきている。昭和57年から63年の間に都心3区で肉屋、魚屋、八百屋などの小売店は10%から20%も減少した。なかでも豆腐屋は35%以上もなくなっている」(鎌形太郎 地価高騰で変貌する土地)。

公共事業に占める用地補償比率は、地価高騰とともに上昇し、東京都では昭和62年には63.9%も占めるようになった。このため、公共事業の円滑な実施に悪影響を与えたり、実施そのものを困難にさせている。さらに地価の高騰により、固定資産税の負担増や事業所賃料の上昇、企業の事業用地確保・拡張が困難になるなど中小零細企業を中心に経営環境は悪化してきた。

■バブルが弾ける時限装置

地価がファンダメンタルズの価格を超えて上昇を続けると、その不動産を購入して事業や投資が成り立たない。例えば投資家Aが投資収益率1~2%のインカムリターンで保有し、売却時の予想キャピタルゲインでハードルレートのIRRをあげる期待を持ってたとすると、投資家A→投資家B→投資家Cと転売されるたびに賃料は硬直性が強いためインカムリターンは減少し、価格とファンダメンタルズの乖離が拡大するため価格は永遠に上昇を続けなければならなくなる。このような常軌を逸したマネーゲームがいつまでも続くとは考えられない。「バブルは必ず破綻する」これは人類史が繰り返してきた歴史の教訓である。

■バブル潰し

バブル崩壊は実にあっけなかった。NHKは1987年9~11月に6回にわたり「世界のなかの日本 土地は誰のものか」を放送し、サラリーマンが一生働いても買えない高地価の不条理を訴えた。放送がはじまるや電話が洪水のように押し寄せた。電話の数はNHKテレビ始まって以来のことだった。電話の内容は「この企画に共鳴する」というものだった。誰もが異常だ、けしからんと叫び始めた。盛り上がった世論により政治が動き、土地バブルを終焉させた総量規制、さらに地価税の導入とバブル潰しの一連の政策が取られた。世論によってバブル退治に動員された日銀の三重野総裁は「平成の鬼平」ともてはやされた。

急激な金融引き締め、大蔵省の総量規制、懲罰的税制、さらに、当時の国土庁により地価監視区域制度も実施され、公示価格と乖離した高値取引を規制した。これらによりバブルは弾けた。日本人のDNAにすりこまれた地価神話が音をたてて崩れた。しかし全力疾走の短距離ランナーの前に突然、巨大な隕石を落下させたようなこれら一連の政策は、後に大きな禍根を日本経済に残すことになる。

4、バブルをめぐる失政の検証

日銀、大蔵省など政府の対応を検証すると全体を鳥瞰する横断的内部機構の欠落により、全体として整合性を欠いた政策しかできなかった。

「政府部内に総合調整機能を持った政策企画、立案機関が存在しないまま、個々の政策や制度変更がその生み出す副作用の検討や対処の準備をすることなく実行されたことである。例えばその不用意さが、大きな民間貯蓄黒字を(財政赤字や民間の内需で吸収せずに)膨大な経常収支黒字として実現させてしまったが、その結果、日米経済摩擦は極めて悪化した。それがさらに外圧となって、金融引き締めを遅らせた。結果、バブルを生じたが、その認識も遅かった。(中略) また十分な準備・調査研究が行われないままにさまざまな規制緩和が行われ、内需拡大の中心が非効率な公共事業やリゾート開発に置かれた」(総合研究開発機構 平成バブルの研究)。

特に金融政策の日銀の失政は大きい。プラザ合意後の円高不況対策として過度に公定歩合を引き下げ、ブラック・マンデー後も「為替アンカー論」を理由として金融緩和を持続した。超金融緩和政策によるを史上最低水準を2年3ヶ月続け持続させバブルを引き起こした。

大蔵省は、バブルをあまりにも急激に崩壊させ、その後の処理が遅れたため巨額の不良債権を積み上げ、金融システムは機能不全となり、日本経済の成長メカニズムを毀損させた。この点については次回で詳説する。次回はバブルの負の遺産「不良債権問題」について論及する予定。

■次回記事
  地価下落・不良債権・デフレ負の連鎖3
      

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